南青山ハイツ所話☆
青山通り(R246)を渋谷方面に向かい、表参道を過ぎ、青山学院大手前、右に紀伊国屋の、五丁目交差点を左折して骨董通りへ、道の左を歩き、高樹町交差点方面へ向かいます。当時、銀座線表参道駅から、メンバーが連なりゾロゾロ楽器をぶら下げ歩いた印象を思い出すと、交差点から2・3百メートル?行った辺りの右に、柿右衛門があり、その左横の坂道路地に入ります。 下り進み、角毎を道なりに左・右・左と三面なだらかな坂をおりて行くと、左側に南青山ハイツが現れます。 建物は二階建てで、一・二階に二戸ずつの計四戸。その右下が、合宿場所でした。 アパート前が駐車スペースで、その手前のプランターが、無断駐車を阻む形で置いてありました。 “一人の部屋”のレコードジャケットは、その辺りで撮影した記憶があります。 仕事の時は、駐車スペース前、左右のプランターの空いた所に、ハイエース(人呼んでチューリップ号)が止まり、楽器と僕らを積んで演奏会場へ運んで行きました。 ライブが終わる度、車のボディーに、ファンの人達の親しみの落書きが、増えて行くのを、不思議な気分で眺めたものです。 建物一階の中央に階段があり、その右横の扉の向こうに、2Kの部屋がありました。 鉄の玄関ドアを開けると、半畳程の下足場があり、上がると左に六畳のキッチン、右側は風呂場になってました。 キッチンには、僕らの楽器がいつも積み上げられて、消えそうな天井の蛍光灯と相俟って、薄暗い部屋の印象が残っています。 外食ばかりで、このキッチンでの、自炊経験は一度も無いはず。 右の風呂場は、床と、壁へ下から2・30センチ程の所まで、ひと升が小さい焦げ茶色の同じタイルが、何だか雑に張ってある印象。 手前がトイレで、波形加工の硝子?を隔てて洗い場があり、その向こう壁際が湯船。 お風呂でお湯を使い洗うと、トイレまで流れて来てしまい、集団生活をするのには、かなり使い勝手の悪い所でした。 奥に行きます。左が六畳、右は四畳半の和室で、その奥に押し入れがありました。 六畳にはA・H・Z、四畳半にはY・Uが布団を敷いていました。 六畳側の裏手は使えない、いつも暗いベランダがあり、崖下の雰囲気で、アパート全体の強い湿気は、その為でした。 押し入れに布団を入れる毎に、重さが増して行くので、その内布団は、六畳に積み重ねる様にになりました。 そこを背に、ギターを弾いてた、今は無き姿を思い出します。 優しいスタッフの人達は、僕等を驚かせ楽しませようと、夜中にこっそり合い鍵で侵入し、湿気の押し入れに隠れ寝て、朝、「起床!起床!」と笑顔で飛び出して来たり。 別の朝は、横笛の上品な音で、起床を知らせてくれるスタッフの人もいました。 が、少し鬱陶しかった記憶あり(笑)ゴメンナサイ。 布団を仕舞わなくなった押し入れは、戸を外し、オーディオやレコードの定位置となって行きました。 苦楽の中、合宿飽きしてたメンバー。 休日は、アパートに誰も居ない事も多く、不用心から下着泥棒事件を生んだりもしました。 メンバーが手持ち楽器をぶら下げて行く場所の大半は、神田ヤマハのスタジオでした。 防音薄いドアだけの、普通の音楽教室のような作りの中。 練習に明け暮れ、角を突き合わせたりした時期が、懐かしく蘇ります。 ファーストアルバムの頃の練習は、殆ど此処でした。 確か、スタジオとスタジオの間の廊下で撮影したのが、“心の旅”のシングル盤のジャケットに、なっています。 あまり此処を練習の場として使わなくなった頃、撮影の為だけに行ったように覚えています。 ーまたいつか、書きます− ![]() まさとし 07/Nov.2017 [Tue] 23:57
コメント
馴染みのある青山・骨董通り界隈。
あの道をこう行って、ああ行って・・・と 場景を思い浮かべながら 臨場感いっぱいの描写に導かれ 南青山ハイツへとタイムトリップしました。 「またいつか」を楽しみにしています🎵
青山辺り、もう跡形もないでしょうね。
でも、青山学院が引っ越ししてなかったら、 少しは思い出せるかな? 上田さん、ありがとうございます❗
上田さんの記憶の素晴らしさ、それをとても分かりやすく鮮明に表現して下さるので、
拝読させて貰いながらマンションの部屋に自分も入ってしまってるかのように読み進んで行きました。 『また いつか』 私も楽しみに待っています‼ コメントする
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ひょっとして、上田さんって、
タイム・トラベラー??