Martintonの日々

今年もご声援!ありがとうございました☆
みなさん、よいお年をお迎えください!


まさとし
コメント
今年も上田さんのステージをたくさん見れました。おかげさまでいい一年になりました。
来年も元気なステージを楽しみにしております。
JAM9 : URL : : 31/Dec.2018 [Mon] 17:40 : bo9oEqO2
1年間、お疲れさまでした。今年もたくさん楽しまさせてくれてありがとうございました。
来年も、1月New Year、2月Rev-9、3月Dear Beatles、4月から再びTULIP、いっぱい楽しみます。

財津さんも完全復活。財津さんに見初められた上田さんはやっぱり凄い! ちょっと横道に。《余りにも有名な伝説の記事》
“日本のリバプール”博多スーパースター列伝<チューリップ>
 日本で初めて本格的に「ポップス」と取り組んだバンド──それがチューリップである。結成から40年以上が経っても名曲は色あせず、今も鮮烈に“青春の光と影”を映し出す。その背景には、彼ら自身が博多から上京し、もがき続けた日々が重なり合うのだ。
「お前ら、次の歌が売れなかったら博多に帰れ!」
 そんな非情の言葉は、シンコーミュージックの総帥・草野昌一から発せられた。草野は「漣健児」のペンネームを持つ訳詞家でもあり、中尾ミエの「可愛いベイビー」など、60年代ポップスのほとんどを和訳してきた。
 ただし、シンコーの専属アーティスト第1号のチューリップに対して、和製ポップスのような「甘くやさしく」は一切なかった。特に詞に対しては、すべての詞曲を手がける財津和夫に対し、ドラスティックな言い方をしていた‥‥。
 そんな財津の“デビュー前夜”を、福岡・RKB毎日のディレクターだった野見山実は目にしている。
「彼がまだ西南学院大学で『フォークメイツ』というアマチュアグループだった頃ですね。それから『ザ・フォーシンガーズ』を結成して、大学対抗のコンテストにもよく出ていました。洋楽志向の熱心なバンドという印象でしたね」
 チューリップがアマチュア時代に自主製作盤で出した「柱時計が10時半」も購入し、伝説のライブ喫茶「照和」にも何度か観に行った。若くして名曲を作り出す才能は、井上陽水の「持ち込みデモテープ」を最初に聴いた野見山の耳にも十分に響いたのだ。
 財津はこの時代のミュージシャンと同じく、博多・天神の映画館で観たビートルズの「A HARD DAYS NIGHT」に衝撃を受けた。財津いわく「脳みそが全部入れ替わった」ほどである。そしてビートルズと同じスタイルのバンドを形成したのがチューリップであった。
 そんな財津の作ったデモテープを、東芝EMIのディレクターだった新田和長が“発掘”する。実は70年7月に「私の小さな人生」でプレデビューしているが、これは不発に終わった。
 博多へ戻った彼らのもとへ5人ものスカウト陣がやって来たが、その1人が初代マネジャーとなる西田四郎である。西田は、草野社長や新田とともに、福岡・電気ホールのイベントを観る。
「歌も良かったけど、幕間に小芝居をやるようなアイデアがおもしろかった。実は草野社長はプロダクション業務に興味ない人だったけど、これからはミュージシャンを後押しする時代だと感じたようですね」
 その日の夜には財津をホテルに呼び、東京に来る気があるかと聞く。財津は、きっぱりと答えた。
「条件とか特にありません。僕たちはコッペパンをかじってでも、プロとして生きていけます」
 西田が驚いたのは、財津があらかじめ「メンバー5人の献立表」を用意してきたことだ。月曜の夜はインスタントラーメンなど質素なメニューが並び、週あたり何千円かあれば5人がやっていけるという覚悟を書き出していた。
 その高い音楽性だけでなく、この「献立表」がスタッフの心をつかんだと西田は思った。
「チューリップは東京に行ってプロになりますが、決して博多を忘れません」
 旅立ちコンサートで放った名セリフである──。
 73年に「コーヒーショップで」でデビューしたあべ静江は、山口百恵や桜田淳子、アグネス・チャンと同年の新人賞を争った。百恵がホリプロ、淳子がサンミュージック、アグネスが渡辺プロと“王道”であるのに対し、あべは「シンコーミュージック」という音楽系の事務所に籍を置く。
「私自身が『ザ・芸能界』というムードが苦手で、いくつかお話をいただいた中から、ここが一番、しっくりくると思いました」
 あべより1年早い72年にチューリップがデビューし、74年には甲斐バンドが世に出た。美人アイドルが男ばかりのバンドに囲まれた形だが、息苦しさはなかったと言う。むしろ「家族」のように過ごしていた。
「例えば大阪の仕事が同じ日にあったら、同じロイヤルホテルに泊まらされるんです。その日の仕事が終わったら『ただいま』と帰ってくるような感じでした」
 さらにオフの海外旅行も定期的に事務所単位でという豪胆さだった。多忙な芸能界にあってもオフをきちんと与え、また所属タレントが全員一緒なら事務所の目が届くという利点もあったようだ。
「ロス、ロンドン、パリ、エジプトと行きましたね。同じ旅をするとわかるんですが、女の私よりもチューリップのほうがよっぽど繊細。特に財津和夫は、顔を洗うのも歯を磨くのもミネラルウォーターのエビアンを使っていました」
 あまりにバンドとの距離が近すぎて、一切、恋愛の対象にはならなかった。ただ、思いがけない形で「見守られている」ことを実感する。それはあべが失恋をした直後のことだった。
「財津さんが私のマンションに来たんですよ。まだ私はさめざめと泣いている状態で、失礼な人ねと思ったけど‥‥」
 財津はぶっきらぼうに「お腹すいた」と言う。あべが冷蔵庫からあり合わせの食材で料理を作ると、財津は不遜にも「イヤだ」とゴネる。そして──、
「しーちゃん、泣いているのはいいけど、3日間だけ許す。でも、それ以上になったら好かんたいね」
 その言葉にあべは、ハッと目が覚める自分を感じた。恋人との別離から立ち直れたのは、財津の一言にほかならなかったのだ。
 こうした家族的な仲だけでなく、アーティストとしての財津にも多くの曲を提供してもらっている。特に「私は小鳥」(75年9月)は名曲の誉れ高い。
「もともとチューリップがライブで歌っていましたが、この曲は私のほうが合うんじゃないかと思いまして。それで財津さんにOKをもらって、レコーディングではチューリップがバックの演奏も
yossy : URL : : 31/Dec.2018 [Mon] 20:18 : 3UkA6s06
やってくれたんです」
 エンディングのコーラスの部分は、ギターとユニゾンで高いキーになるのだが、ギタリストの安部俊幸が予定より1小節多く弾いてしまった。そのため、息継ぎのタイミングが大変だったとあべは苦笑する。
 もともとはチューリップのオリジナルでありながら、あべに書き下ろしたと財津が混同したのは、それだけ完成度の高いカバーになった証拠だ。
 再びチューリップのデビュー期に話を戻したい。業界中が絶賛したメジャーデビュー曲「魔法の黄色い靴」(72年6月)は、期待に反してさっぱり売れなかった。続く「一人の部屋」(72年9月)も同様で、前述のように草野社長から「ダメなら帰れ」の最後通告が出されたのである。
 博多のミュージックシーンにおいて財津は、誰よりも光り輝く存在であった。筆者はチューリップのライバルだった海援隊の武田鉄矢から、こんな言葉を聞いたことがある。
「吉田拓郎が『結婚しようよ』で大ブームになった時、博多でただひとり『大したコードじゃないよ』と言ったのが財津和夫。それはもう揺るぎなかった」
 その海援隊のドラムだった上田雅利を引き抜くなど、財津は一部で「バンド潰し屋」という呼ばれ方もした。ただ、西田四郎によれば、それだけではなかったと擁護する。
「引き抜くというより、博多中のミュージシャンが財津に相談に行くんだから。もちろん、一緒にやりたいという連中も多かった」
 西田はある日、財津から1本のカセットテープを渡された。それはアマチュア時代の甲斐よしひろの歌声である。
 後日、財津に感想を求められた西田は、素直に「いい声だ」と答える。
「よし、俺のマネジャー合格! すぐに九州に飛んで契約したほうがいいよ」
 後に甲斐が石橋凌(ARB)のテープを西田に聴かせ、同じように「久留米に行ったほうがいい」と伝えたのは、福岡の音楽史を語る上で見逃せないシーンである。
 さてデビューからの2作が売れなかった財津が背水の陣で書いたのは、博多から上京した頃をモチーフにした「心の旅」(73年4月)である。もはや説明不要な大ヒット曲であり、みごとにメジャーの切符を手に入れる。ただし──、
「草野社長の鶴の一声だったね。レコーディング直前に、姫野達也をボーカルにしようと言い出したのは」
 西田によれば、ディレクターの新田和長は最後まで財津のボーカルにこだわった。ただ、GS全盛期を知る草野の戦略は、メンバー最年少で、ルックスにも声にも甘さを残す姫野を先に売り出そうというものだった。
 財津は勝負曲でありながらボーカルを外されたことに屈辱を感じた。それでも、振り返れば「あれで良かったんだ」と思え、スタッフの“ヒットを見抜く目”に改めて感服した。
 ただし、チューリップは黄色い歓声を浴びるアイドルバンドとなった。姫野の甘酸っぱいリードボーカルは続いたが、あえて財津は、スタッフの反対を押し切って壮大なバラード曲をシングルにする。
 自身がボーカルを取り戻した「青春の影」(74年6月)は、以来、多くのミュージシャンにリスペクトされる珠玉の1曲となった──。
yossy : URL : : 31/Dec.2018 [Mon] 20:21 : 3UkA6s06
☆上田さん1年間おつかれさまでした!
来年も素晴らしいステージ楽しみにしています♪
湘南shoes : URL : : 31/Dec.2018 [Mon] 23:59 : Gnkt6C4Y
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