百年山笠 / そうたい!! / オイサ

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博多祇園山笠について

はじめに・・・

僕の想いが こもった『百年山笠』と『そうたい!!』。
地方の祭りのことなので、なかなか理解しがたい部分があると思うので、少し“山笠(山)”に ついて説明を加えさせていただきたいと思います。

博多祇園山笠は、今年(※注;『百年山笠/そうたい』を発表した2007年当時)で 766年の歴史があります。
7月1日から15日まで15日間あり、実際に動き出すのは 9日からです。

◆9日「お汐井取り」
“山”が動く前に身を清めるため、町内ごとに山小屋(詰所)から箱崎浜まで走ります。夕陽に向かってかしわ手を打ち浜の塩(汐;清めの海砂)を持って帰ります。足ならしの意味もあります。

◆10日「流舁き」
全部で七流ある“舁き山”が、この日動き出します。「流舁き」とは、それぞれ各町内の中を肩ならしも兼ねて試運転走りをする日です。
『百年山笠』は 2002年のこの日のことを歌っています。

◆11日「朝山」
早朝、「追い山」と同じ時間に走ります。
“流”の中で前年に亡くなられた功労者の方がおられた町内は「追善山」も行われます。

◆12日「追い山ならし」
初めて“七流”が揃います。「追い山」のリハーサルで「追い山」より1km短い 奈良屋町の廻り止めまでです。

◆13日「集団山見せ」
明治通りを呉服町交差点〜福岡市役所まで約1.2km。商人の町・博多から、城下町・福岡に“山”が“川”を越えて入る唯一の日です。

◆14日「流舁き」
翌15日早朝の「追い山」に向けての調整も兼ね、流れ区域内を舁きます。

◆15日「追い山」
未明から集合して櫛田神社前の土居通りに“山”が並び、舁き出し時刻を待ちます。午前4時59分、大太鼓の合図とともに一番山笠が「櫛田入り」。境内に入って清道旗をぐるっと廻り、須崎町の廻り止めまで約5km。二番山笠は5時5分、後5分おきにスタートします。スタートが59分、というのは一番山笠が1分間「博多祝い唄」を歌う時間です。

談:上田雅利(2007年) 


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『百年山笠』について

博多には“山のぼせ”という言葉があります。
僕もその一人ですが、実は僕らの町“西門町中小路(西中:サイナカ)”には百年間“山”が入って来なかったんです。
明治38年の雷鳴事件以来、責任を取って“山”を建てなかったんです。
(*参照 『幻の福神流』 / Blog “Martintonの日々” 2007.6.28付

だから僕らの町は“本流”ではなく“加勢町”として恵比須流さんに参加しています。
それが、約百年ぶりに恵比須流さんのご厚意で、僕らの町に初めて“山”が入って来たんです。厳密には今までも中洲流さんの加勢町時代に“山”が入ってきたことはあったけど、僕らの町内に入る時に町内の人間だけで“山”に付いて、山を“舁く(かく)”、台上がりをする、そんな夢のような事が出来る訳がなかったのです。

それが2002年に、現実に起きたのです。
おじいちゃんも親父も叶わなかったことが。
明治時代から受け継いだ「福神流」の法被を着た“西中(サイナカ)”の人間だけで“山”に付いて西門町中小路を走ったーーー。
その日は町中が泣きました。僕も兄貴も。

その日のことを歌にしてくれと言われていたんですが、あまりにも重すぎて、そう簡単には出来なかったんです。
それが去年2006年、一番山笠で盛り上がりの年に「追い山」が終わって直会(なおらい:反省会&懇親会)の席で、皆で「オイサ」を歌って勢いでみんなに約束させられたんですね、創るって。

談:上田雅利(2007年) 


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『そうたい!!』について

“山笠”に実際に参加している人、舁き手のことを歌った応援歌です。

実はこの曲は TULIPアルバム「run」の候補曲でもあったのです。

歌詞を考えるために訪れた湘南で
「縄掛け 肩をたたく 山笠(ヤマ)の歴史を 担えよ」
という歌詞がフッと浮かんできたんです。
これは“山”の歌だな・・・と。
でもTULIPで“山”の歌はないだろうと・・・。
果たして、『そうたい!!』が出来上がりました。

談:上田雅利(2007年) 


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幻の福神流

福神流は魚町流ともいい、博多を東西に横切る流れで太閤町割りの時に出来た伝統ある七流れの一つである。
明治38年雷鳴事件以来、責任をとって山笠には不参加を決め、静め能の役目(能当番・従来七番山がしていた)を昭和40年まで果していた。現在は櫛田神社が行なっている。
第二次世界大戦終了後、福神流の構成町、二ヶ町・西門中小路の若手有志を中心にして加勢町として、東町流れに参加(昭和24年〜昭和29年7月12日まで)、承天寺の清道入りの際に起きた不測の事情により、参加を辞退。
昭和29年7月15日から中洲流に加勢。
西門蒲鉾・故上田利一氏が中洲流の津上岩次郎氏(上田氏の長兄/人形小路)に頼み15日追い山より参加。以来、昭和40年まで加勢。
昭和41年、中洲流よりハッピ統一の要請があり、伝統ある福神流のハッピを脱ぐことは出来ず、加勢を断念。以後、昭和46年まで山笠不参加。
昭和47年から昭和59年まで東流に加勢。
上田氏が「子供達が可哀相なので前走りをさせてください」と東町の市丸氏に嘆願、参加が実現する。
昭和59年、山笠終了後「ハッピを脱げば、来年は本流に」との言葉を受け町内で談合、18対17の結果を以てハッピ存続を決定。
昭和60年一年間山笠を休む。
昭和61年より恵比須流に加勢。
山下商店・山下矩生氏が福神流・蓮池町の加勢町として参加依頼され、現在に至る。

●今までにお世話になった流れ(年代順)
東町流に加勢 (昭和24年〜29年)
中洲流に加勢 (昭和29年〜40年)
東流に加勢  (昭和47年〜59年)
恵比須流に加勢(昭和61年〜平成22年)※追記

●明治38年の雷鳴事件とは
明治38年7月12日・追い山ならし…。
先刻よりの夕立模様の中、一番山西町流・蔵本町が出た後の事。
突然の雷雨、山留めの責任者が不覚にも雷鳴を合図の太鼓と聞き誤り、定刻より1分早く出発の合図である『山留めの竿』をさっとあげた。それを見た二番山福神流・上店屋町が何もためらう事もなく出てしまった。
それをきっかけに三番山に続く各流れも時間を無視して出てしまい、祇園町筋(現・国体道路)に一番山の東長寺入り及び承天寺入軒待ち合わせの、二番山から六番山までが並び、一本の道に五本の山を見るという前代未聞の奇観を呈するに至ってしまった。
大喧嘩の末14日夕方、福神流・上店屋町は山を解き崩し、15日は五本で追い山を奉納した。
翌年、一番山福神流・西門中小路は6月10日に山は建てぬと決議。櫛田神社に対する不服ではないので、その後7年間、奉納の飾り人形を流れ区内の石堂川や西門橋の上などに飾って神社に奉納した。
本来、能当番は七番山の当番町が行なっていたが、大正2年より山笠各流れの山笠委員が協議の結果、福神流が能当番を担当するに至った。
この役目は昭和40年まで続き、現在では櫛田神社が行なっている。

※1992年発表『オイサ ー幻の福神流ー』ブックレットより 


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