三角巾
上田利一 著

第七部 終戦

 いよいよ最終の目的地に送られる事となった。私達を乗せた自動車は赤十字のマークも鮮やかに、蜿々と砂漠の中を砂塵を蹴って走る。
 それとは対照的に、ゆるやかに行く、ラクダのキャラバン隊の整然さ、(私は幼き頃の〝月の砂漠〟を想い出した。)
 目的地「ピカネール」に着いた。ここは日本人の捕虜を収容したキャンプが六棟あった。(以前はイタリーの捕虜が居た由。)
 敗戦に次ぐ敗戦で、日本人の捕虜が増加して、イタリーの捕虜は他に移したと聞いた。
 元気になった戦友はキャンプへ、私はここの病院に収容される事になった。
 どうにか歩ける様になった私は、未だ病院生活を続けなければならないのだった。
 この病院で退院まで手術を三回した。治癒も毎日親切に続けられた。日一日と良くなって行く歓び、早く元気な躰になりたいと祈った。
 この平穏な病院に、意外な報道がもたらされた。それは、八月十五日の終戦だった。
 連合軍が発行する軍事新聞に「戦争全く休熄す」と大きく掲げ、天皇の写真も載っていた。
 私達は大きく動揺した。
 『嘘だ!』『負けるものか!』『デマだ!』
と憤りを見せ、殆んどの戦友は信じなかった。
英人達は
 『ジャパンフニシ』
と言って、歓声を上げ、ビールで乾杯して居る。万更嘘でもないらしいと、深刻な顔をして考え込んで居る戦友も居た。
 私は信じて見たかった。それは、日本軍の敗戦の現実を知っていたからだ
 やっと人間らしい形に快復し、昭和二十年十一月三日に退院し、菊水荘と言うキャンプに編入された。キャンプには早や作業が待って居た。満足な躰なら当然の義務かも知れないが、私には到底耐えられない事だった。
 そこでキャンプ長に作業の苦痛を訴えた処、快く聞き入れて、作業を免除して貰った。
 昭和二十一年六月の復員まで、色々複雑な事件が発生した。
 あるキャンプの如きは竹槍を作り騒動を起した。
 (竹槍を作った竹は、各人の寝台に蚊帳を吊す為四本の竹が支給されて居た竹で、この竹槍騒動から竹を没収して針金を張り巡らしたそうな。私がキャンプに編入された時は無かった。)
 その原因は、作業に対して給与が悪いので、良くして呉れと要求したが、聞き入れられなかったので竹槍を構え、朝夕点呼取りに来る英軍将校を柵内に入れなかったのだ。重大視した敵さんは、火砲や機関銃を持ち出し、バリケードの外側に威嚇配置をしたので、不穏な空気に包まれた幾日であった。双方の話しが纒まり、それから幾らか給与が良くなったと、以前から居る戦友から聞かされた。
 これが有名な「竹槍騒動」であった。
 確かに、日本人ここに在りの威信を示した事は銘記して置きたい。
 又、反英分子だと、獄舎に縛られたり、電流で自殺を計ったり、数え切れない大小の事件があったそうだ。
 だが反面、慰安の方にも余念がなかった。 毀れた寝台で麻雀牌を作り、キャンプ内で競技会を行った。一日五本の配給のタバコが賞品だった。各人が節約してタバコを出し合い、それの争奪戦となるのである。
 又月に一回、各キャンプ毎に演芸会が盛大にかつ、なごやかに開催されて居た。
 舞台、道具、引幕まで揃って、一寸した田舎芝居小屋だ。皆それぞれ得手の劇を作り、時代劇専門や、現代劇専門や、喜劇一本槍の人々や、殆んどが自作、演出、自演と言った仕組になって居る。キャンプ内で四班に分れ、各班対抗となって芸を競った。
 私も狩出しを喰い、出演させられた。もとより好きな演芸だけに、懸命な努力した処、班長に芸を認められ、早速、演芸常任委員に指命されてしまった。作業に耐えられない私だ。せめて、代りに働いて呉れて居る戦友への償いにと、精魂を打込んだ。班対抗となれば負けられず、遂に筆を執った。全然、そんな文章の持合せのない私が、脚本を一本書き上げた。
 それは「恋の関所」と言う時代劇だった。
 計らずも好評を博し、帰るまで喜劇ばかり五本程書いた。又、博多二○加の台本も書いた。
 一寸覚えて居る題名を書いて見よう。「恋の関所」「マゴツキ・アパート」「ほゝゑむ一家」「宿」「捕物異変」二○加で「お正月」
等である。脚本は皆、キャンプに置いて来た。惜しい事をしたと思って居る。
 私の作品には必ず出演し、他の作品にも出演したが主役は一度もやらず、三枚目の役ばかりだった。
 演芸委員は、キャンプの慰安と言う名目で、作業から除外された。演芸会が終れば、すぐ次ぎの演芸の準備に取り掛り、すべてを忘れて、一生懸命に演芸一途、帰るまで精進した。
 やがて、苦楽を共にした、菊水キャンプと別れる日がやってきた。
 菊水キャンプの生活も良い想い出となった。