Martintonの日々

僕の愛すべき生徒からDVD付きCDが届きました☆
最もスタイリッシュ。最も挑発的。最も踊れるJazz。と帯に記してありました。
今から封を解きます♪楽しみです。


まさとし
2008_10月 : comments (0) : trackback (x)
京都余韻[宝泉院 額縁庭園]
叩き歌会前夜、初体感美味カレーうどん(うどんにカレーなんて〜!と悉く蹴散らせて来た私の意識を変えた味)に始まり、湯葉蕎麦・きつねとじうどんを経由して、京都うどん[おめん]にて締めてみました和麺?堪能の旅。
それにしても、大原 宝泉院で頂いたお抹茶の味が京の余韻の片隅に☆


まさとし
2008_10月 : comments (3) : trackback (x)
水琴窟
竹の筒に耳を当て驚きました☆♪☆
京都[都雅都雅]のオープニングで使用した、秋の音を切り取った感じのSEの話しです。
ひとしきりの虫の音が流れ、その途中から登場する水が何かの中へ垂れるような不思議な音、実は余りに耳を引く音なので迷い、この奇音が登場する少し前で演奏を始める事にしました、だからお客さんの耳には届いてはいませんが。
京都の秋をイメージし、いろんなCDの音源をなぞってたどり着いた一枚に、何と京都大原 宝泉院の[水琴窟]と言う隠れた名奇音が入っていた事に、そこに必然足を運んだ事に気づかされたのです。と言う事は虫の音もこの都のモノの可能性が大なはずなのです。
偶然とは云え、京都の秋の音を京都の会場で流せた幸いが生まれた訳で基礎体温ほんのり上昇な気分でした☆


まさとし
2008_10月 : comments (3) : trackback (x)
京都故許せる小降りな朝走り♪
京都[都雅都雅]での余韻を受け止め可能な身体に整える為、小降りと本降りのゼブラ模様の京の都の朝を駆けてみました。汗と雨でコーティングされながらも心地よく終了☆
本番直前にドラム機材の変調に一時はどうなることかとの思いでしたが、優秀穏健な店のスタッフの方の、素敵なる機転に助けて頂き、無事birthday叩き歌会を創作出来ました。
都雅都雅に足を運んでくださった皆さん本当に有り難うございます。染み入る【気】のプレゼントを感じる事が出来ました。感謝しています。


まさとし
2008_10月 : comments (2) : trackback (x)
近場のうどん店
王道からはかなり左右にブレ過ぎたメニューだらけなんだけど、うどんにはウルサイつもりの私が月1通いの店なんです。どれを注文しても無難に美味いが何より☆
それなりに引力な訳です♪

京都でうま〜いうどんに巡り会いたいなあ〜!
あと三つ寝ると[都雅都雅]京都birthdayライヴの日♪


まさとし
2008_10月 : comments (1) : trackback (x)
打ち上げにお邪魔しています
通しリハーサル燃焼後、ヒンシュクを買う不慣れなギターケースの抱え方でラッシュに翻弄されながら新宿へ、シアター・ドリームズ・カンパニー麻丘めぐみさん演出のお芝居に、揺られ癒やされ身体の芯のコリを柔らかくして頂きました。しかも本日が初日の打ち上げに、同席が叶い、役者さんの舞台直後のお話まで聴けて、学びも楽しく濃い時間を持ち帰る事が出来ました。


まさとし
2008_10月 : comments (1) : trackback (x)
ナイルのカレー実食☆
スプーンは水の入ったコップに最初からカップリングされて出て来ていました。
平べったく、丸い大きな白いお皿の七割ぐらいに、薄く広く敷かれたごはん。そのもう片方から皿四割のカレーが盛られ、何だかとてもスタイリッシュでした。うかつにスプーンを走らすと、ごはんが余ってしまうので、美味しく綺麗?に食べる事がここのカレーを味わう一つの条件とも勝手になっていました。
♪百円でした♪

カノ天神店で馴染んでた感じに盛り付けてみました☆
大きな器は叶いませんでしたが、プロデビュー前夜の味がしました☆

!京都への追い込みにタイトな時間が重なります。


まさとし
2008_10月 : comments (4) : trackback (x)
我が町も昔は商店街 ー3
さて、再び表通りにもどりましょう。

西門橋とは反対側の坂途中には間口が少し狭目で縦長の本屋さんがあり、毎週兄と僕のところに少年マガジン・サンデーを、母のもとへは週刊誌や小説雑誌を届けてくれていました。
17才を迎えた時、その雑誌のタイトルに何だか大人に近づいた高鳴りを覚え、浅はかにも少女雑誌とは気付かず[セブンティーン]を手に取ってカウンターへ行ってしまったのです。その時の、少し困惑ぎみなおじさんの表情から勘違いを悟りましたが、後には引けず、火照った顔で支払いを済ませて逃げ帰った情けない記憶の鮮明なこと♪★本屋さんにはしばらくの間入れませんでしたっけ〜。

この町の一角を占め、親類同士が同じ名前から始まる専門店を幾つか経営されていました。先ずは先ほどの本屋さん。そして次は眼鏡屋さんです。本店をこの町に残し、天神進出に成功して福岡で一番の眼鏡店になりました。勿論健在です!
そして電気屋さん。同じくの天神進出でしたが、大きなレコード店に見事転身!驚かされました。デビュー後の帰郷の折に何度か天神のお店を訪ねて行きました。するとその度毎に、必ずおじさんが(社長さんです)近くの喫茶店でお茶を僕にご馳走してくれて、その間中 店では、その時々のチューリップの新譜を、ボリュームを上げてかけてくれていました。(今年の山笠の時にふらり洋画のDVDをこの店にて衝動購入しました。)

他には家具屋さんもありました二軒程。それに学校の成績がいつも頗る良かった同級生が次男坊の文具店も同じ名前でした。(面白い事に、彼の甥っ子さんが僕の旧友[つのだ☆ひろ]氏の所へ弟子入りしていて、現在も現役のプロドラマーなのです♪)
そうそう!今年の博多祇園山笠に彼のお兄さんが勇気を持って初参加して貰えて、(子供の頃にも一度も参加されてない訳で、なかなか出来ない事なのです。)とても楽しく酒を酌み交わす事が出来ました☆

商店街中央に貫禄の歴史が刻まれた見事な佇まいの銭湯がありました♪
我が家に家風呂は勿論あったのですが、よく「風呂屋の風呂に行ってくるけん!」と言って祖父と連れ立ってました。湯船の中を懲りずに潜水泳ぎをして、祖父にその都度よく叱られたものです☆
つい2・3年前まで営業されていて道路拡張計画の為 立ち退かれたクスリ屋さん!祭りの時、栄養剤や二日酔いの薬の件で随分良くして頂きました。

僕がチューリップの初期に文字どうり全国を飛び回っていた頃、国内線の飛行機の中で突然スチュワーデスの綺麗なお姉さんに親しく話しかけられ、ドギマギした事がありました。そのお姉さん、実は母親が日頃から仲良くして頂いてた、野菜・果物や乾物をとても品良く陳列販売していた店のお嬢さんだったのです。幼い頃を知ってただけに、かなり嬉しビックリな出来事でした。

本屋の斜向かい洋酒のディスプレイが華やか豪華だった酒屋の(おっと!ここも同じ名前でした!)店先には、一時期、ブームだったプラモのレーシングカー用サーキットレーンがあり、子供達が学校帰りに集合して熱気に満ち溢れたのを思い出します。僕の愛車はポルシェカレラシックスだった?と記憶しています☆(上京するまでは確かに僕の部屋の棚の上に仕舞ってたはずですが、家を建て替える時に紛失してしまいました★★)

銭湯を正面に見て左側、店の前を通るとトンコツのいい香り??漂う♪何故だか兄が勝手にいい加減なテーマソングを作って口ずさんでいた博多ラーメンの美味しい店!お世話になりました☆
土曜日の夜[ローハイド]を見る前に、夜食用の出前を家族三人分(父リーチ君はいつも不参加)毎週頼んでいました♪ラーメンは母から分けてもらい、カタ焼きそば折角の具野菜を殆ど避けて、タレ付きカタ麺だけをかじっていた★偏食虚弱坊主な私♪母親が「本当にも〜!こげん美味しいとにネェ〜!」と後を片付けてくれてました。スミマセン★
その斜め右向かいの食堂の上が、紙芝居のおじさんの家で、雨の日などはその二階が紙芝居劇場となり、とっても不思議なワクワクの異空間を作り出していました。
☆☆☆

あの素敵だった商店街の時代☆
車は少なく馬車が当たり前だった頃♪子ども達は三輪車を持ち寄り、後輪二個の間のステップ?の所に前輪を横にコジ入れ、数珠繋ぎにしては西門橋を押して上がり、下りは全員が両足を真横に上げ、ムカデがぶれないよう斜めに挟まったハンドルをしっかと握り締めて、出来るだけ大声奇声を張り上げて一気に駆け下りたものでした。

時が移り今は百年振りに西門町中小路に山笠が入り、年に一度西門橋を駆け上がり駆け下りる奇跡の光景☆
今、あの頃の商店街の人達に胸を張って誇れるモノは、山笠だけとなってしまいました。

町中通りもんで溢れてた5月の博多どんたくや、買い物客で賑わう年の瀬は、それは華やかなものでした☆抽選用の屋台が登場して鐘を鳴らしこの商店街の大売り出しを盛大に盛り上げてくれていました。
今でも古いビデオのように記憶に収録された映像は時間と共に劣化しながらも再生を試みるとノイズたっぷりに蘇って来る訳です。あの商店街のざわめきが☆
かまぼこ屋さんのショーウインドー横、おじいちゃんと孫が(私)二人でこさえた、質素な電飾で飾られた小さなクリスマスツリーが まばたいて見えます☆

お〜っとまだ十月半ばですよね♪
本当に長々と失礼しました。
最後まで付き合って頂いてありがとうございました☆


まさとし
2008_10月 : comments (2) : trackback (x)
我が町も昔は商店街 ー2
さて!
僕らの遊びのメインストリート☆横丁の話に移ります♪

煮豆売りのおじさんの声がこだまし、きびだんご売りの屋台や『バーン』との破裂音♪楽しいポンポン菓子製造屋台が子供達の日々を飾っていました。
そして夏はバンコ(木製の背もたれの無い長椅子)を出して花火に興じ、お正月にはまるで歌の如く、女の子が羽子板で羽を突き、男の子は、縦細長く切った新聞紙を奴さんダコの足に付け、懸命に駆けて空に上げ、時折電線に絡ませ★鉄の芯を丹念慎重に中心に打ち立てた自慢のコマを回し、強さを競うケンカゴマに時間を忘れる場所でした♪

生家のすぐ裏隣りに小さな花屋がありました。兄啓蔵の上にもう一人、死産で、生まれ出た時に命が尽きた一番上の兄、その代わりのように僕等兄弟が慕っていた又従兄弟の正信ちゃん(ブログにて触れた数々のエピソードの持ち主です)のお爺さんお婆さんが営むお花屋さんが、横丁にひっそりと馴染んでいました。お寺の多いこの界隈、お墓参りのお客さん達に重宝がられてた店でした。
その隣は、いつも子供達がたむろしていた駄菓子屋さん。舌で舐めると文字が浮き出て来る[舐りくじ]の当たり・スカ(外れ)で駄菓子を手に入れるのが人気でした♪当たり前にスカが圧倒的でしたが。

駄菓子屋さんの奥では博多の『一銭洋食』が香ばしい匂いで僕等を誘っていました。(お好み焼きの事で、洋食の語源由来は、ヘラを強く押し当てて薄っぺらく焼いた形から、貿易港博多にその昔渡来したピザ?を、模して作ったと云う説がありますが、伊の国は遠過ぎ★責任は取れません♪一銭で買えた時代からの食べ物な訳です。)
焼き上がっても皿などは無く、焼きたての洋食を新聞紙に包んでくれるのですが、写真や記事が温かい洋食の生地に毎度しっかりプリントされていました。勿論全然気にせず常に美味しく味わっていたのですが♪

近くのお寺の門前が紙芝居興行おじさんの定位置で、釘付けの口調に人気は絶大でした。
お寺の境内ではしゃぐ子供達はルール知らずです★何度叱られても釣り鐘で遊び、お墓までの遠征を止めませんでした。スミマセン★
門前の右横には店頭に大きな釜があり、秋冬は焼き芋屋さん、春夏はところてんや、かき氷の店となり、年間を通して週一二度は通っていました。

そのちょうど真向かいに、夕方になるといつも数人の大人達が楽しそうに背の高い丸いテーブルを囲んでいた[立ち飲み]の出来る酒屋さんがありました。
ここが!以前のブログ[名犬エスの生き方]話で登場し、保育園の行き帰りの僕を狙った犬達[ピコとルミ]の(ほんの一時期の事ですが)アジト?でもあった訳です。
お寺の左並びには遊び仲間のK君家のトタン屋さんがあり、ご近所でも有名な夫婦喧嘩の名所でした♪最中、横丁路上に味噌汁入りの鍋が飛び出して来たり、バケツやホウキやお玉が週に一度は空を舞う摩訶不思議なお家でした。

 【つづく】


まさとし
2008_10月 : comments (1) : trackback (x)
我が町も昔は商店街 ー1
何でも一様に揃うこの元気な商店街に来ると、懐かしき居心地の良さにそよがれます。目的の買い物が済んでも、幾つかの店先にお邪魔してウィンドーショッピングや小粒な衝動買いを、気ままな長居を楽しみます。
おそらく生まれ育った僕の町、博多は西門町中小路商店街の昔に通じる情景がダブルからでしょう。

現在故郷の町並みは、都市のドーナツ化現象に少子化が拍車を掛け道幅拡張工事のオマケまで付いて、哀れな虫食い状態です。
昔の面影は既に消え、商店は呉服屋さんとまんじゅう屋さんクリーニング店と僕の生家のかまぼこ店(西門蒲鉾)が残るだけとなってしまいました。しかしその昔(昭和中期)は、それは輝き賑わいの商店街だったのです。

目を閉じれば容易に蘇る映像に任せて散歩ご案内をしてみる事にします。
多少の記憶違いの混入は何卒大目に♪

では!
生家の正面にはガラスのショーウインドウの眩しい貴金属が華やかに出迎える、大きな質屋さんがありました。店の奥にはたいそう立派な蔵が建っており、そのまた奥には卓球場まであり、ご近所の誼でよく遊ばせて頂きました。お陰で僕の人生における唯一の球技☆ピンポンを(拙い眼力なりに)体得する事が出来ました。(?転がすボーリングも球技かな??)

質屋を正面に見ての右手には、当時主流の駄菓子屋とは一線を引く、森永・明治・不二家・グリコなどのメジャーメーカーの商品にこだわっての品揃えをしていた、控え目な敷居の高さが上品なお菓子屋さんがありました。あの時分「かあちゃん十円ちょうだい!」少年(私)には遠足に持って行くお菓子を買う時か、特別な行事の時(例えば、いつの頃からか始まった、どんたくや山笠に参加した子ども達に町費で配られる、ご褒美のお菓子のセットもこの店のモノだったように記憶します?)にしか、その店の上等なお菓子を手にする事は出来ませんでした。

そして質屋の左隣は床屋さん。我が家の男性陣は皆そこで髪を整えてもらってました。特に大晦日などは、紅白を家で観・聞きしながら(紅白もラジオの時代からテレビへと移り始めた頃です。)散髪の順番待ちの男性さん達の姿が浮かんで来ます。(無論僕の髪もビートルズを真似た髪型を注文して(当然)断られるまでは、その店で刈ってもらっていました。《丸刈りに!》)

その横には八百屋さんがあり、腰が90度に曲がったおばあちゃん達三人の三姉妹がいつも口喧嘩を日課に、快活賑やかに働いておられました。
西門蒲鉾の左隣は飴屋さん?でした。平べったい長方形のガラス蓋を斜めに開け、米糠の中から白い小粒な飴を取ってもらう時の糠の香りが、何故かとても好きでした。後に我が家の敷地となり、祖父が上田釣具店を、その後は父親が魚屋を始めました。暗いうちからスクーターで毎朝魚市場通いの父が、その日の蒲鉾の材料を競り落とした後、別に吟味した、取れたて新鮮な魚を置くので評判は悪くはなかったはずです。しかし所詮二足の草鞋、長くは保てず、蒲鉾店に専念する事を選んだみたいです。

そのまた左に、ある時期から突然商店街に加わった?父の遊び仲間のおじさんが経営する洋品店が登場。何と!僕のステージ衣装第一号は母の見立てにより、この店で購入した物でした。
生家の右の横丁を挟んで向かいには洒落た建物の写真館が、日本人離れした日本人の写真を小粋に飾り、いつも淡い憧れを放っていました。その数軒先には、こじんまりとした旅館があり、たまに芸能人が宿泊したりすると町中大騒ぎになってたのを思い出します。その横が幼い頃、一日中でも居たかった夢の館のおもちゃ屋さんでした。ガラスケースの前にしゃがんでブリキのロボットを見つめているチントン(父が僕に付けてくれた愛称マーチントンの省略型?です)が見えます。

そのまた横が[やぶれまんじゅう]が美味しい饅頭屋さんで、現在も営業されています。その隣にはパチンコ店が、その向かい側にはスマートボール屋があり、商売が暇な夏の夕暮れ時にタバコをくゆらせてリーチ君(父です)がボールを弾いていた光景が目に残っています。スマートボール屋のガラス戸を正面に右に歩くと[西門橋]の袂に美味しさ嬉しいぜんざい屋さんがありました。後にここを引き払い繁華街天神に進出した事により福岡でも指折りの繁盛店になり、誇らしくも寂しい気持ちを抱いたのを思い出します。(現在も新天町にて健在です。)

 【つづく】


まさとし
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