本恵比寿の本日(一月十日)は、父親の誕生日☆
当時、博多でも指折りの“山笠のぼせ(やまのぼせ)”と言われ、郷土の祭りをこよなく愛した父の享年は、63歳。その年の七月十五日早朝。 通りに面した二階のガラス窓を大きく開き、博多祇園山笠フィナーレ追い山の為、櫛田神社へ向かう“西中”(サイナカは、西門町・中小路の略)の仲間達を手を叩き笑顔で見送った父。 山笠仲間も全員会釈で、それに応えてくれたと聞いています。 その後しばらくして、大量吐血。 追い山が終わり西中の仲間達が町に戻る頃と入れ違いに、救急車で病院に運ばれたそうです。 旅先からとって返して病室に駆けつけた時には、既に昏睡状態でした。 僕の呼びかけにも応える事無く、意識戻らぬまま。祭り翌日十六日の昼過ぎに他界。 山笠のぼせ、に相応しい終わり方だったのかも知れません。 コンサートツアー中、父の具合がとても悪いとの知らせを受け、一旦生家に戻ったのは、亡くなる数日前でした。 父の部屋に行くと、意外なほど穏やかな表情で迎えてくれました。 ベッドからゆっくり自力で起き上がり座ると、僕の方を向きながら「‥とおちゃん、今度はもう…駄目かも知れん‥。」と言い。 その後思い出したように、白髪頭の中から三十センチ近くの長い眉毛を指で摘まみ出し、「ばってん、今まで守ってくれた、これがまだあるけん」と弱々しい笑みを浮かべてました。 ガダルカナルやビルマ等の激戦地で、敵や飢えや病気や恐怖と戦い。銃弾を三度も身体のあちこちに喰らいながらも、生き残り帰還出来た、強運のシンボルとしての存在だったのでしょう。 実は眉毛の存在を知ったのは、その時が初めてでした。 励ます言葉並べても、会話つながらず。僕が部屋を出ようとする気配を感じて、「まーとっちゃん(父は僕をそう呼んでいました)!‥とうちゃんと、一緒にここに寝ちゃらん」と父が。 照れくささ隠しながら、左向きコの字に二人並んで、背中に父を感じ無言のまま、数分間横になりました。 その間 父は、僕の肩にそっと手を置いただけでした。 「‥ありがとう」 父が僕に残した最後の言葉となりました。 葬儀諸々が終わり東京に戻ると、不思議な夜が始まりました。 連夜の夢の中に毎回必ず、父親が登場してくるのです。明るく! 気味悪い夢等とは全然異質の、目覚めた後でも何だか穏やかな気分漂う夢の残像。 逢える事がウキウキを誘う、楽しく不思議な夢記憶の連なりでした。 二人であちこちへ行き語り合ってた、夢の途中で毎回、「そう言えば、とうちゃん。死んどったちゃなかと?」と聞くと、いつも、「よかったい!そげな事は気にせんでも!」と返し、笑っていました。 何とそれは、2ヶ月近くも続き、そしてある夜からパタッと、夢への父の登場はなくなりました。…今もです。 父は、一年を通じて‘西門蒲鉾(生家)’で沢山買い物をして頂いたお客さんや、お世話になった人達に、毎年年賀状を書いておりました(その数、千通近く)。 十日恵比寿へお参りの方達に、その年賀状を手に立ち寄って頂いて。 くじ引きにて、外れ無しのお土産(タイの形の蒲鉾の大・中・小を基本に、大当たり・中当たり、その他)を無料進呈する店を、十日恵比須神社境内内に出しておりました。 十日恵比須と、父親の誕生日(一月十日)が同じと言う、有り難い理由から、始めたとの事。 本日、父の誕生日☆ ![]() 昨夜、父の本‘三角巾’を読みました。もう一冊は‘中洲の川’ ![]() まさとし 10/Jan.2016 [Sun] 15:21
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ちなみに 墓石に記された母の兄の名前は「利一」。
としかず らしいですが …