我が町も昔は商店街 ー1
何でも一様に揃うこの元気な商店街に来ると、懐かしき居心地の良さにそよがれます。目的の買い物が済んでも、幾つかの店先にお邪魔してウィンドーショッピングや小粒な衝動買いを、気ままな長居を楽しみます。
おそらく生まれ育った僕の町、博多は西門町中小路商店街の昔に通じる情景がダブルからでしょう。
現在故郷の町並みは、都市のドーナツ化現象に少子化が拍車を掛け道幅拡張工事のオマケまで付いて、哀れな虫食い状態です。
昔の面影は既に消え、商店は呉服屋さんとまんじゅう屋さんクリーニング店と僕の生家のかまぼこ店(西門蒲鉾)が残るだけとなってしまいました。しかしその昔(昭和中期)は、それは輝き賑わいの商店街だったのです。
目を閉じれば容易に蘇る映像に任せて散歩ご案内をしてみる事にします。
多少の記憶違いの混入は何卒大目に♪
では!
生家の正面にはガラスのショーウインドウの眩しい貴金属が華やかに出迎える、大きな質屋さんがありました。店の奥にはたいそう立派な蔵が建っており、そのまた奥には卓球場まであり、ご近所の誼でよく遊ばせて頂きました。お陰で僕の人生における唯一の球技☆ピンポンを(拙い眼力なりに)体得する事が出来ました。(?転がすボーリングも球技かな??)
質屋を正面に見ての右手には、当時主流の駄菓子屋とは一線を引く、森永・明治・不二家・グリコなどのメジャーメーカーの商品にこだわっての品揃えをしていた、控え目な敷居の高さが上品なお菓子屋さんがありました。あの時分「かあちゃん十円ちょうだい!」少年(私)には遠足に持って行くお菓子を買う時か、特別な行事の時(例えば、いつの頃からか始まった、どんたくや山笠に参加した子ども達に町費で配られる、ご褒美のお菓子のセットもこの店のモノだったように記憶します?)にしか、その店の上等なお菓子を手にする事は出来ませんでした。
そして質屋の左隣は床屋さん。我が家の男性陣は皆そこで髪を整えてもらってました。特に大晦日などは、紅白を家で観・聞きしながら(紅白もラジオの時代からテレビへと移り始めた頃です。)散髪の順番待ちの男性さん達の姿が浮かんで来ます。(無論僕の髪もビートルズを真似た髪型を注文して(当然)断られるまでは、その店で刈ってもらっていました。《丸刈りに!》)
その横には八百屋さんがあり、腰が90度に曲がったおばあちゃん達三人の三姉妹がいつも口喧嘩を日課に、快活賑やかに働いておられました。
西門蒲鉾の左隣は飴屋さん?でした。平べったい長方形のガラス蓋を斜めに開け、米糠の中から白い小粒な飴を取ってもらう時の糠の香りが、何故かとても好きでした。後に我が家の敷地となり、祖父が上田釣具店を、その後は父親が魚屋を始めました。暗いうちからスクーターで毎朝魚市場通いの父が、その日の蒲鉾の材料を競り落とした後、別に吟味した、取れたて新鮮な魚を置くので評判は悪くはなかったはずです。しかし所詮二足の草鞋、長くは保てず、蒲鉾店に専念する事を選んだみたいです。
そのまた左に、ある時期から突然商店街に加わった?父の遊び仲間のおじさんが経営する洋品店が登場。何と!僕のステージ衣装第一号は母の見立てにより、この店で購入した物でした。
生家の右の横丁を挟んで向かいには洒落た建物の写真館が、日本人離れした日本人の写真を小粋に飾り、いつも淡い憧れを放っていました。その数軒先には、こじんまりとした旅館があり、たまに芸能人が宿泊したりすると町中大騒ぎになってたのを思い出します。その横が幼い頃、一日中でも居たかった夢の館のおもちゃ屋さんでした。ガラスケースの前にしゃがんでブリキのロボットを見つめているチントン(父が僕に付けてくれた愛称マーチントンの省略型?です)が見えます。
そのまた横が[やぶれまんじゅう]が美味しい饅頭屋さんで、現在も営業されています。その隣にはパチンコ店が、その向かい側にはスマートボール屋があり、商売が暇な夏の夕暮れ時にタバコをくゆらせてリーチ君(父です)がボールを弾いていた光景が目に残っています。スマートボール屋のガラス戸を正面に右に歩くと[西門橋]の袂に美味しさ嬉しいぜんざい屋さんがありました。後にここを引き払い繁華街天神に進出した事により福岡でも指折りの繁盛店になり、誇らしくも寂しい気持ちを抱いたのを思い出します。(現在も新天町にて健在です。)
【つづく】
2008.10.16