リーチ君と十日恵比須
大正五年一月十日に父 上田利一(リーチ君)は誕生しました。
商売人にとってはミラクルめでたい事に、十日恵比須の日に生を受けた訳です。(戦前は歌、戦後ドラムや博多にわかの副業も盛んではありましたが♪)
さて、いつの頃から始まったのかは不明ですが、おそらく昭和30年代始めでしょうか?兄が物心ついた頃に店は存在していたみたいですから。恵比須神社の境内の中に、私の生家の西門蒲鉾が、十日恵比須の期間中の出店を許して頂くようになったのです。
店と云ってもその場で商売をする事はなく!お客さんへの日頃の御愛顧に対する感謝の気持ち、ご奉仕が父の主旨だったと思われます。
神社の鳥居をくぐったすぐ左手にそれはありました。
前の年の12月に一定額以上の商品を買って頂いたお客さん全員に、また常連のお客さんに父が年賀状を書き、そのハガキを参拝の時のついでに店に持って来て頂くと、それと引き換えに、外れくじ無しの福引きが出来るようになっていました。
大中小のタイの形をした蒲鉾を中心にお土産が当たる仕組みでした。
景品は、特賞が恵比須さん〔松竹梅とタイの形の蒲鉾の詰め合わせで《春冠》と云います。〕・一等大黒帳〔大きな帳面を象った蒲鉾です〕次が金ぷく〔特大のタイ〕・銀ぷく〔中のタイ〕・松〔小ぶりのタイ〕となっていました。
十日恵比須の日に生まれた縁を大切にしたいとの、父の思いから始まった行事だと思います。〈その内いつか聞いてみたい〉項目のランキング上位に位置していましたが、63才の他界は早すぎました★ひと項目もクリアー出来ずじまいでした。
この期間、西門蒲鉾店は年末の忙しさが蘇ります!
年の瀬に向かい父親の年賀状手書きは大変なひと仕事で、数百枚は送っていましたから、決して侮れない数の十日恵比須用景品と、まだ正月から繋がる、新年会絡みの注文品を作る仕事に店全体が大騒ぎだったのです。
恵比須神社前の店頭には出来るだけ時間を都合しては、父は立ちました。
恵比須さんや大黒帳が出た時には太鼓を鳴らして祝い、お神酒を振る舞い、お客さんとのコミュニケーションの場となっていました。
めでたい年賀な会話で、笑顔や笑い声が溢れていたのを覚えています。僕はと云えば、学校帰りに店に遊びに行き、手伝いに満たない手伝いをして、華やいだ神社の半日を、二度目の正月気分を味わっていました。
寒い店内に石油ストーブが登場するまでは、七輪を熾して暖を取っていました。やかんを外し網を乗せ、餅を焼き、砂糖醤油で食べた香ばしい味、今でも顔に張り付く七輪の暖かさと共に容易に蘇ります!
本店の忙しさを考え、店番を買って出てくれていたのは祖母の妹のカワユいユキばあちゃんでした。この店の映像を思い浮かべるると必ずセットで浮かんできます。本当にお世話かけました!ワタシ
そしてこの時期神社で働く、頗るりりしくスマートな祖父の、紺の神社の紋付きに白袴の世話人姿が、優しい眼差しがとても好きでした。(現在は兄がその紋付き袴にてボランティアの世話人会で働いています。総勢70人の組織で、アルバイトを使うのが当たり前の昨今、全国でも珍しい存在のようです。)
祖父の空き時間に十日恵比須で賑わう参道の様々な露店の数々を見歩きました。
タレ付きスルメ売りのおじさんの名物のダミ声は今でも耳に残ってます。器用にハサミを駆使する飴細工のおじさんの目の前でカブリツキで見てました。いつも買って貰った【はっか菓子】「何杯飲んでも十円〜!ジュース」そそられましたが一歩踏み出す勇気は使わず終いでした★
ここでひと脇道話を♪
九州だけかも知れませんが、露店に東京ケーキと云うのれんが数軒ありました。名前に惹かれ体感すると、カステラボール?のような?チープですが後を引く味でした。
こののれんが関東に来るとベビーカステラと改名?されていたのに上京後20年もかけて解明した喜び☆
『な〜んや東京ケーキばいこの味』渋谷公園通りの露店でした♪☆♪
話を戻します!
かならず毎年同じ場所に小規模のサーカス小屋や幽霊屋敷がぼくらを待ってくれていました♪
蛇女や、ろくろっ首の女の人、丸いおわんの中をバイクでクルクル回り曲芸を披露する人、様々思い出しますが、全てが拙い眼力のお陰でどれもこれも見事なピンボケ★連れて行ってくれた祖父の説明と司会者?の口上で映像をどうにか組み立てて、それなりに楽しんではいましたが、…観客のどよめきと時を同じくする事はありませんでした☆☆
八日 初えびす・九日 宵えびす・十日 本えびす・11日 残りえびす です。
今日兄は開運御座所にて祈願希望の参拝者の方々の接客に当たっていたそうです。
2009.01.08