素晴らしき空腹での目覚め♪
こんな年齢になっても、時折空腹をおぼえ目覚める朝が、あったりもします。トラブル多発な虚弱体質ながらも、どうにかその日その日気まぐれに訪れてくれる健康実感を、ありがたく思っとります。
しかし、遙か彼方なる子供の頃のワタシ。
巣くう虚弱に心身の支配を許し、今とは少し異り、空腹等の意味を理解出来ない哀れ愚かな子供でした。
母「まさとし〜!朝ご飯ば食べなさい!なあも腹に入れんで学校に行ったらいかんよ!」
昭和25年10月2日生まれ。
食糧事情厳しい時代に、衣食住を守る為に、親が懸命に働き頑張ってくれている事を、知らず気付けず。
随分罰当たりな食事の時間を過ごしていました。
「人間はなしてご飯ば食べないかんとかいな?なあも腹が減っとらんとに?」などと、不埒にも、食事の時毎に本気でそう思っとりました。
何故にそんな子があの時代にいれた(両親に感謝☆)のかを、拙い眼力を拙い盾にし、幼さない頃を言い訳る事に。
「お腹が空いた母ちゃん〜なんかない」等の、子供がよく使うとされる言葉を、僕はあまり使った記憶がありません。
日々、近所の遊び場で、「コイツ目が殆ど見えとらんじぇ〜」を理由に、みんなの遊びの輪の外に出されて、あぶら虫(遊び相手にならないので、ただそこにいる事だけを許された?除け者)とされる存在でした。
他の子供達のように、外で活発に体を動かし時を忘れ遊びに夢中になる事等を、ほぼ体感することなく、その場にただ一緒にいるだけの子供でした。
保育園入園後も状況は変わらず、外遊びの場へ入る事は、指導者が危険と判断し始め、次第に許されなくなって行きました。
そして小学校時代の体育実技時間もまた。
戸外の眩しさに、視力が全然機能しないと云う現実を積み上げられ、やはり無理との判断(実際に充分に危険ではありましたが★)が下され、見学と言う名で教室居残り者を言い渡される事になり。遂には運動会等に出る事も、一度も叶いませんでした。
その流れで、眩しさがやわらぐ、体育館の室内実技でも同じ扱いでした。
僕にも出来そうな・得意そうな室内競技は幾つかありましたが、試させてもらえぬまま、当然のように参加できず、ひたすら授業の終わりを待つだけの、あぶら虫時間を潰していました。
ついでに加えれば、小・中学校時代、黒板への最前列中央でも、教師がチョークでこする文字に視力は及ばず。故に教室での授業も、内心放棄な状態。
ノートでの落書き遊びを重ねる日々は続きました。
大切な成長期に、努力を怠る事を覚え、運動を汗に替える快感をも知らず、頭も身体も鍛えず使わない日々をずっと送ってしまったという訳です。
こんな子には、お腹が空かないうちに、いつも次の食事の時間が巡って来る日々が与えられました。
好きな駄菓子だけを食べ、野菜は勿論、肉や魚貝や果物も、全てを口に運べない、偏食虚弱怠け小僧が育まれて♪いきました。
生家は、かまぼこ屋。
食事は職人さん達と常に一緒に済ませる習慣でした。
が、食堂のテーブルに並ぶ母親苦心のおかずに、食欲を一切感じず。
忙しい親の、目が届かない事をいいことに、ご飯にふりかけ(のり玉・すきやきふりかけ♪)をかけ、その時を凌いで?いました。
幼い頃からの僕の夢は(今も?)、他の子と同じ視界を頂き、思いっきり心身を動かして、大汗をかく事だったりした訳です。
高校時代に親戚の正信ちゃん(過去のブログに強い存在感な彼の事と書いてたス)に誘われ、優れた彼の指導の元、運良く僕が手に出来た最初のスポーツ。それがアイススケートでした。
これを滑れるようになった事で、それまでの人生感や、ひとが僕に対する態度が一変したのを覚えています。
まさのぶちゃんに強引にスケート場に連れて行かれ、スポーツ万能の彼の手にぶら下がり、滑れないはずのリンクを、彼の頼り甲斐ある右手で僕の身体はコントロール。
最初からリングをグルグル回り滑らされ、的確な指導と包容力で、初日のうちにかなり滑れるようになったのは、スポーツには縁遠いと決めつけてた私には大事件となりました。
そして訪れた青春の大転換期に、音楽(ドラム)を知り、味方に付け。
開発され登場した度付きサングラスが、未知の世界への自由(少し)な扉を開き、突如僕の領域に、スポーツ力が(勿論限られてますが)雪崩れ込んで来たのです。
アイススケート・ローラースケート・ジョギング。そしてかなり後から加わった水泳(有り難き度付きグラサンゴーグルの登場にて)。
玉の汗をかく爽快感と、空腹の意味を身体全体で理解出来るようにもなりました。
そして素晴らしき“麦”との出会いでは、食欲増進が加わり偏食が治り、オセロゲームのように全ての食品が好物の色へとひっくり返って行き(鶏肉以外♪)まいた☆
そして空腹で目覚める、朝の登場☆
−めでたし−
20130712