三角巾
上田利一 著

第五部 訪問

 又輸送が始まった。だが近くの飛行場迄だった。今度は私達を輸送機で送るのだ。
 担架に乗せられた儘、機上の人となる。生まれて初めての事でもあり、嬉しくもあり、哀れでもある。不自由な躰を担架に縛り付けられ、何と味気ない空の旅であろう。
 アラカン山脈を越え、印度の「ベンガル」飛行場に着陸後、直ちに自動車で「チッタゴン」の病院に運ばれて来た。
 始めて完備した敵さんの病院に落ち付いた。給与は、朝は紅茶、ミルク。昼、夕食共カレーライスの日が多かった。不自由な私に、インデアンが、真黒な手の手掴みで、「ジヤパニー、カナ(飯)」と言い乍ら口に入れて呉れた。食べ終ると「パニー(水)」と言って飲ませ、最後にタバコまで側に居て喫ませて呉れた。
 あれ程憎んだのに、今は感謝の念が湧いて来る。インデアンは何故か日本人に対して好意を寄せて呉る様で非常に親切であり、私等の面倒を良く見て呉れた。「ピース(小便)」と言えば嫌な顔もせず、気持よく取って呉れるが、大便には困った。表現の仕方を知らない私は身振りも出来ないダルマさん以上の躰だ、どうすることも出来ない哀れさ、手真似で戦友が教えて呉れ、やっとの思いで、このチッタゴンで始めて用を足した。
 治療は良く行届き、毎日英人の看護婦が丁寧にして呉れた。治療の際は繃帯を鋏で切り捨て、又新しい繃帯を惜しみなく使用する。敵さんは二度と使用しない事を知った。
 本当に「持てる国」は違うなアーと思った。然し看護婦は、私の負傷の五ケ所には苦笑を浮べた。
 (彼女自身、何んと傷の多い日本人と思ったに違いない。)
 ある日将校が病院に訪れ、患者のベッドへ次ぎ次ぎに日本語で話しかけて居たが、やがて私のベッドに来て、貴方の故里(くに)は何処ですか」と尋ねた。私は本当の事を言って良いのかと、一度躊躇(ためら)ったが「九州」と言った。すると「九州は何処?」と聞き直したので想わず、つい「福岡」と言ってしまった。すると急激に笑顔を見せ、非常に懐しい眼差で彼はこう言った。「私は西戸崎のライヂングサン石油に昭和一五年迄居ました」と言い。なお言葉を続けて「福岡にいいレストランがありましたね」と言った。 私は記憶を辿り幾つかの食堂の名を連ねた処、彼が言うミカド食堂を言い当てた。彼は良くそのミカド食堂で食事をしたと言った。彼は日本を懐かしみ、福岡に愛着を感じ、福岡の話しをしたかったに相違ない……。
 彼は帰りにポケットより煙草の缶入を取り出し「どうぞ」と言った。プレゼントだそうな。どうも有難う御座いますと、礼を述べると彼は、「いや些細な事で」と言って立去った。
 彼はこのチッタゴン病院に一ケ月余り居た間、三度程訪れ、例の缶入タバコを置いて行った。
 (地獄で仏に逢った思いがした。)
 意外な訪問客のチッタゴンの出来事は忘れられない。まして苦しい環境にあったチッタゴンは、私の生涯の記憶から抹消出来ない。