三角巾
上田利一 著

第八部 帰国

 歳月は流れ、「ジャパン、カンバック」の朗報が伝えられた。
 印度に熱風が再び襲って来る盛夏の日だった。英軍の将校から、はっきり皆、集められて口頭で伝達された。
 リュック、靴下、ランニング上下、新しい開襟シャツ上下等が渡された。「カンバック」が実現しそうになった。
 英国は紳士的な国だと聞いて居たが、成程、帰る様になると、紳士的な態度を見せ始めた。これが英国の国民性かも知れない。
 私達は兎に角、嬉しかった。躍り上って喜ぶ者、大声を張り上げて、
 『おう!日本へ帰るぞ!』
と叫ぶ戦友、これぞ、歓びに満ちた叫びであった。捕虜も一般復員者と同等に、取扱いする旨も報ぜられた。非常に悩んだ大きな問題だけに、より以上歓んだのも無理からぬ事であった。それと反対に、こう言って信じない戦友も居た。
 『ボンベイへ行ってセイロン島へ島流しだ。』
 疑惑を抱く戦友、帰国を信じる戦友も一緒にボンベイへ向って、住み馴れたキャンプを後にした。沿道を埋める印度の人々は、私達を歓送して呉れる様であった。
 乗船地のボンベイに送られて来た。やがて船内に収容され、出帆した。
 恐らく、再び来る事のない印度大陸に、聊かの愛着を覚えた。
 一切の感情も清算され、夢は遂いに現実となった。
 私達は「シンガポール」へ入港したのだった。
 此処で復員の手続を完了し、昭和二十一年六月二十四日、梅雨に煙る名古屋港に上陸した。憧れの日本の地に帰って来たのだ。
 心は故里へ、一家は無事か、驚くだろうと、直ちに電報を打った。
 恋しい懐しい、再会の夢を描く復員列車、早く逢い度い妻子の許に、心はやたらに走って居た。幾年振りかに見る故里の駅、駅は昔のまま変って居ないが、静かな帰国だ。
 電報を打っているのに、只一人として、私を迎えて呉れなかった。
 一人悄然とホームを出た。変り果てた博多の街。敗戦の爪跡生々しい様相を凝視し乍ら、私は、リュックを背に杖を突き、重い足どりで、皆が待って居るだろう、今、見る、日本の我が家へ辿り着いた。死んだ筈の私が帰ったので、家中の驚きはいかばかりか…………。
 家中皆んな元気だったが、生れて居る筈の長男の死!
私は愕然とした…………。
 問題の電報は、そのあくる日配達して来た。
 十三年経った今日、記憶を呼び戻し回想に耽けり乍ら、今ベッドの上でペンを執って居る。未だ、私には一生消え去らない傷跡と、不具になった躰が、生涯残る事であろう…………。
 肩の傷の「三角巾」の取れる日を待ちつゝ。

(終り)
昭和三十三年二月二十一日記